氷中花
1
足元の雪がサクと音を立てた。
まだ誰の足跡もない場所に一歩を踏み出すのは小さな喜びがあった。
唯はゆっくりと雪の中、川に向かって進んでいく。
『受験が終わったら一緒に散歩でもしよう』
そう言ったあの人は今度結婚する。
相手は唯の姉だ。
美しく賢い自慢の姉。
そして・・・いつも唯に自己嫌悪を覚えさせる姉。
彼は、もともと手の届く人じゃなかった。
それでも、ただ見ていたかったのだ。
憧れていた優しい年上の家庭教師を。
受験は秋に推薦でさっさと決めてしまった。
志望理由が彼の勤める高校だというのが一番だったのは誰にも言えなかったけれど。
なのに・・どうして今頃結婚話なんて聞かされるのだろう。
いまさら進学先を変えることもできないのに。
唯はそっとため息をついた。
ため息は辺りの温度を感じさせる真っ白なもので、唇がますます冷たくなったようだ。
「寒・・・」
唯は川を前にしてしゃがみこんだ。
手袋をしていても寒気はじんじんと染み込んでくるようだ。
「かずきさん・・・」
誰にも聞こえないようなひっそりとした声で唯はつぶやいた。
愛しい人の名前。
鳥が、バサバサと音を立てて飛んだ。
羽音に驚いて振り向くと、そこには寒さに同化したような凍えた瞳を持つ男が立っていた。
黒いロングコートが雪にまみれている。
雪まみれなのは唯も同様だった。
吹雪く雪の中、二人は傘もささずたたずんでいた。
先に動いたのは男の方だ。
唯の腕をひき、立たせる。
そして自分のコートを脱ぐと、唯の頭からかぶせた。
男のコートの下は喪服だった。
黒いスーツに雪が滲む。
「あなたのほうが寒そう」
唯の言葉に男は苦笑した。
それから唯の腕を握ったまま大道路に向かって歩き出した。
道路も雪で覆われ、歩いた跡がどんどんまた雪に埋められてゆく。
大柄な男に引っ張られるように、小柄な唯は歩いた。
そして雪まみれのまま、男の車に乗せられてそこから離れた。
もう二人の足跡は消えていた。
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