氷中花
7
長いキスに流されそうになりながら、ふと我にかえる。
はっとしたように両手で押しのけようとする唯を面白そうに見下ろすと、
男は冷たい笑みを浮かべ、さらに口付けを深めた。
唯は身動きがとれずそのまま男の腕の中もがいた。
ふいに離れる。
男の唇に血が滲んだ。
唯ははぁはぁと荒い息のまま男を怯えるように見ると、
そのまま非常扉を開けて走り出した。
男は追わずに唯の背中を見ていた。
唇をぺろりと舐める。
「斎藤唯、か」
冷たい眼差しは変わらない。
男は閉まった扉の向こうに唯が見えているかのように、
しばらくそこを動かなかった。
左手にはまだ新しい眼鏡が揺れている。
(あの男とこんなところでまた会うなんて・・・)
唯は女子トイレの個室に入るとひとり震えた。
唇を手の甲で拭ってから自嘲する。
いまさら何をしているんだろう。
汚れきったこの身で。
自分はもうとっくに和輝にはふさわしくない、
行きずりの男と関係を持つような女なのに。
キスのひとつやふたつで震える自分が情けなかった。
だいじょうぶ。
あたしは大丈夫。
心の中で繰り返す。リズムをつけて何度も。
少しずつドキドキが収まり、落ち着いてくる。
ふぅと深呼吸。
和輝さんはおねえちゃんの旦那さんなんだから。
あたしはもう関係ない。
誰と何をしようと、あたしの自由なんだから。
トイレの個室を出て、鏡を見て気がつく。
・・・眼鏡をかけない腑抜けな姿。
教室についても誰とも話す気になれなかった。
まだみんな様子を伺っているようで、遠慮がちな会話がいくつか聞こえたけれど
唯はその中に加わることはなかった。
望月和輝が担任として教室にやってきたときも顔を上げる気になれず
あえて視線をそらし続けた。
入学式のため、すぐ体育館に移動することになってほっとする。
バラバラと移動する背中を見ながら唯はぼんやり後に続いた。
ふいに手に何か握らされる。
通り過ぎる大きな背中には見覚えがあった。
手の中にはノートの切れ端。
ーPM3:00 あのときの場所
唯はそっとそのメモをスカートのポケットに入れた。
和輝との約束の場所であの男と二度も会うのかと思うと
苦笑せずにはいられなかった。
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