氷中花
35


唯が中学一年のときのことだ。
大学教授をしている父がゼミの学生だと
初めて家に連れてきたときに紹介してくれた。

「望月和輝です。よろしくね」

爽やかな青年だった。
和輝は長身で、小柄な唯は彼をいつも見上げていた。
整った顔ではないがかっこいいと思わせる雰囲気をもつ垂れ目の男性。
唯より八歳も年上なのにときどき子供のように笑った。
他にも何人か父の教え子である学生が家に遊びに来ることはあったが
和輝ほど気さくに唯と接してくれる人はいなかった。
だから、英語の成績が下がったときに
「望月君にきてもらうからしっかり勉強しなさい」
そう言われて嬉しく思ったのは確かだった。
「やだなぁ」などと言ってしまったのは気恥ずかしさがあったからだ。
本当は嬉しくてどきどきしていた。



姉の芽衣は美しく昔から異性に人気があった。
芽衣が大学二年のときだった。
父の教え子の一人が熱を上げすぎてストーカーのようなことをし、
警察沙汰の一歩手前ほどの事件になった。
姉はそのこともあってアメリカへ留学のため一年ほど行っていた。
それ以来父は家に人を呼ばなくなった。

家に来る人は和輝だけ。
家族も認める特別な人だった。
週に二回、和輝の来る日は唯にとって特別な時間になった。



”望月さん”から”和輝さん”に呼び方が変わったのは
唯の中学二年二学期のときだ。
期末テストの英語で九十点をとったと報せたら驚いてそれから微笑んだ。

「がんばったご褒美あげないとな。二人のときは名前で呼んでいいよ」

唯の髪の毛をくしゃりといじりながらそう言った。
彼は照れているときにこの仕草をするんだと唯は気づいていた。

ふたりだけのヒミツが増えるたびに唯は和輝との距離が縮まる気がしたが
それは一方的なものだったのだろうか。
ふたりはついにキスひとつすることもなかった。

「唯は僕のお姫様だからね。簡単に手なんて出せないよ」

冗談めかしてそう言われたときには大事にしてもらっているんだと感激したものだった。
だが姉との結婚話を聞かされたのはそれから一年もたたない冬の日だった。



たくさんの約束と秘密は二人の胸の中に仕舞われたまま
和輝は芽衣と結婚した。

白いブーケの花びらが舞う。
雪のように。
あの川原で。
唯はひとりで佇んでいる。

彼は来ない。
わかっているのに。
はらり、ひらり。
降り積もる花びらの中で永遠の眠りにつきたいと思った。


「唯」

ふいに誰かに揺り動かされてはっとする。
身を起こすとシートベルトが邪魔をしてあまり動く事ができなかった。
車の中だ。
一樹が唯の目元を左手で拭う。

「うなされていたぞ」

夢を見ていたようだった。
涙の跡が気持ち悪いと思った。
唯はまだ夢から抜け切らないような風情で車の窓越しの景色を見ていた。

一樹は唯の右手を掴み、そのままギヤの上に乗せた。
重なる手のぬくもりが少しずつ唯を現実の世界に引き戻してくれるようで
唯は声も出さずに泣いた。
ただただ泣きたかった。



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あなたの隣氷中花 枯れない花星に願いを Sugar×2太陽が笑ってる


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