氷中花
44


唯は慌てたように階下へ駆け下りた。
履きなれないストッキングで階段を滑りそうになり、小さく息を吐く。
リビングで母はお茶を入れ、父はソファに疲れたようにもたれていた。

「おかあさん、和輝さんの荷物がないの!」

いつもより低い声が出たことに唯は自分でも驚いた。
唯の緊張した雰囲気を察したのか両親が目配せをしあった。
父親がため息と共に向かいのソファを指差す。

「座りなさい、話がある」

母親は三人分のお茶を入れて出すと父親の隣に座った。
唯は座りなれたソファなのに酷く居心地の悪さを感じた。
何を両親に言われるのか不安で、それでも何がおきているのかを
知らずにはいられなかった。
喪服のスカートを握り締める手に汗が滲んだ。
父親の発する言葉を待つ時間が酷く長く感じられた。


「和輝くんはうちを出たんだ」
「どうして?」

やっぱりという気持ちと突然すぎる引越しに動揺していた。
確かに二人が結婚し、同居してからまだ日にちは浅い。
若い和輝が一度の結婚に縛られるのはおかしいのかもしれない。
だがまだ妻の葬式が済んだばかりだ。
いくらなんでも早すぎるだろうと唯は思った。

「二人は籍を入れていなかった。だから和輝くんはこの家にいる必要がなくなったんだ」
「籍を入れていない?結婚式もしたのに?」

唯にはわけがわからなかった。
結婚式をしたら籍を入れるのが当然だと思っていた。
祖父が和輝を他人だと言ったのはこういう意味なのだろうか。

「唯、芽衣の病気は随分前からわかっていたと話したわよね。
先の短い芽衣と籍を入れるのはまだ若い和輝くんのためにならないと私たちは考えたの。
ただ最期の時を一緒に過ごさせてあげたくて、一緒に暮らしたのよ」

母親の言葉はもっともらしく聞こえたが唯はどこか納得できないものを感じた。

「おねえちゃんは何の病気だったの?」
「・・・卵巣癌よ。発見が遅くて、気がついたときには上腹部にも転移していたの」

父親が煙草を吸いながら窓際に移動した。
聞くのも辛いのかもしれない。
唯は自分が母親に話させるのは酷なことをしているのかもしれないと感じたが
知りたいという気持ちが強く、そのまま母親の方をじっとみつめた。

「癌だったんだ・・。でも入院とかしていないよね?」
「芽衣が留学していたことがあったでしょう。あれは本当は入院していたの」

ストーカーの事件のショックで海外留学したのではなかったのか。
唯は自分の聞かされていた話が随分ずれているのを感じた。
姉に出したエアメイルも誰か違う人が受け取って病院に届けていたというのだろうか。
何を信じていいのかわからなくなってきた。

出された紅茶を口に含むと酷く苦かった。
いつも美味しいお茶を入れてくれる母の動揺が伝わってきた。
娘が死んだばかりなのだ。
しかもそんな重要な日にもう一人の娘は無断外泊をしている。
連絡もとれない。
両親の心痛は相当なものだったろう。
唯は姉にだけでなく両親にも酷いことをしてしまったように感じられて
自分の行動を酷く悔いた。
気づかぬうちに大切な人をたち傷つけていた自分が人を愛する資格なんてあるんだろうか。
同じように一樹も傷つけてしまうんじゃないだろうか。
そんな不安が頭をもたげた。
一樹にもらった指輪は今は新しいチェーンに下げられ胸元にあるはずだ。
唯は今この不安な気持ちのときに指輪に触れたいと思った。
なんでもいい、すがれるものがほしかったのかもしれない。

「和輝さんが他人だっておじいちゃんが言っていたのは籍が入っていなかったからなの?」
「・・・そういうつもりだったのかもしれないわね」
「じゃあ、私はどうして?」

唯は気になっていたことを口に出してみた。
なんでもないならいい。
ただあのときの祖父の言葉が胸に突き刺さっていた。
酔っ払いのたわごとだったんだと誰かに言ってほしかった。
だが母親は唯の想像と違う答えを返した。

「なんのこと?」
「何のって・・おじいちゃんが言っていたでしょう?”唯おまえだって”って」
「そんなこと言っていないわよ」
「え?」

自分の聞き間違いだったのだろうか。
いや、そんなはずはない。
あんなにドキンとしたんだから。
唯は母親がわざと聞いていないふりをしているのかと疑いを持った。


なんでそんなふりをしないといけないのか?
それは、祖父の言葉が真実であるから?


背筋をぞくぞくと悪寒が走った。
自分の知らないところで何か大切な事実が隠されているのではないか。
考えたくない想像が頭を駆け巡る。


「唯」

はっとしたように母親の目線を辿る。
唇を噛み締めてしまい血が滲んでいた。
そっと舐めると鉄錆のような味がした。



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