氷中花
45


本当のことを聞きたいという気持ちと聞きたくないという気持ち。
かつて一樹のことにも同様の思いが在ったが、
自分の居場所がなくなるかもしれないという不安感は
唯が本能的に逃げたくなるようなものだった。


私はあなたたちの娘じゃないの?
おねえちゃんとも血のつながりはなかったの?


言葉に出したらどんなにすっきりするだろう。
けれど唯は肯定されたときに自分が自分でいられる自信がなくなっていた。
青ざめたまま唯はスカートの裾を握り締めていた。

自分が自分でなくなるかもしれない。
怖い。
ここにいたくない。
唯は震えだした自分の膝に気づき慌てて立ち上がった。

「ちょっと、出かけてくる」

唯は引きとめようとする母親の手を振りほどき、ふらふらとした足取りで家を出た。
外は霧雨が降っていた。
濡れるのはわかっていたが戻るのも気まずく、
まだ傘をさしていない人もいたのでそのまま歩いた。
今は、ただ会いたかった。
一樹に会って抱きしめてほしいと思った。
お前はここにいていいんだよと誰かに言ってほしかった。


雨はだんだんと強くなり、一樹の住むマンションに辿りついた時には
唯はびしょぬれになっていた。
髪の毛から滴り落ちるものも気にせずに唯はインターホンを鳴らした。
一度しかきたことはないが部屋番号は覚えていた。

(早く出て、一樹さん!)


激しくなる雨の音が唯の背後から聞こえる。
泣きそうな唯の期待を裏切るかのようにインターホンからの返答はなかった。

不在なのか。

一樹の予定を聞いておけば良かったと思ったがいまさらだ。
彼にだって自分の生活があるのだ。
唯はいまさらのように気がついて恥ずかしく思った。
こんな自分だから、両親も姉も本当のことが言えなかったのではないかと思った。

ぞくぞくと寒気がして両腕で自分の身を抱きしめたが効果はなかった。
肌に張り付くような喪服が気持ち悪かった。
家に帰れば着替えはある。
わかってはいたがあの家にすぐ戻る気持ちにもなれなかった。

「そうだ、携帯・・・」

唯はびしょぬれのまま、学校に向かって歩くことにした。
世界史準備室に置いたままの携帯電話のことを思い出した。
一樹の連絡先がわかるのはあの携帯電話のメモリーだけだった。
携帯電話が手元に戻れば一樹に電話できる。
会えなくても、ひとことだけでもいい、声が聞きたかった。
ワンピースの胸元から一樹にもらったチェーンと指輪を取り出す。
指輪を握り締めたら少しだけほっとした。
震える指先に息を吹きかける。

(だいじょうぶ、まだだいじょうぶだから)



強く身を打つような雨のもと唯は歩いた。
足取りは酷く重いが寒気は落ち着いてむしろぽかぽかとしてきた。
公園を横切るときに土の匂いがした。
懐かしい匂いだ。
芽衣と公園で遊んだ記憶が蘇る。

砂場でだだをこねた唯に自分の使っていたおもちゃを差し出した芽衣。
いいのと聞いたらだって私は唯のおねえちゃんだからと笑って応えた芽衣。

いつも唯にやさしかった姉の姿が残像のように見えた。
まだ幼い少女の芽衣が笑っている。
立ち止まり、唯は手を差し伸べる。

「おねえちゃん・・・」


ゆらりと風景が傾く。
土の香りが濃くなった。
激しい雨はやさしいリズムで唯を打ち続けた。
遠雷が光ったのがそこで覚えている唯の最後の記憶になった。



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