氷中花
55


薄暗い体育倉庫はどこか湿ったようなかび臭い匂いがしていた。
腹部を二度殴られて唯は膝を付いた。
そこからの記憶はあやしい。
零れ落ちた涙は痛みのせいか衝撃のせいか悲しみのせいか。
唯は目を閉じ、震え殴られながらただただ時間が過ぎるのを待っていた。
一樹に会えると期待していた分衝撃は大きかった。
ふいにばちんと頬を平手打ちされ、はっとしたように目をあげる。

「目立つところ殴るなって言ったでしょう?」
「そうだけど、斎藤サン寝てるんじゃないかと思って」

くすくすと嘲笑しながら上履きを履いたままの足で唯を蹴りあげる。
その勢いによろめき跳び箱にぶつかった。

彼女たちにこんなことをされる謂れはない。
自分がしたのは、ただ一樹を愛したということだけだ。
一樹を愛したことが罪だというのなら、これは罰なのだろうか。
クラスメイトから突然向けられた敵意は怖くて、悲しくて、痛みを伴うものだったが、
それでももしこの罰を受ければ一樹とのことは許されるというのなら
唯は耐えてみたいとさえ思った。
絶望的な気持ちが痛みに麻痺していた。
最初に受けた驚きや騙されたという衝撃はどこかへ行ってしまって、
ただただ見えない何かに試されているような気持ちに唯はなっていた。

急に扉のところでガチャガチャとノブを回そうとする音が聴こえて、
唯に暴力を振るっていた三人の動きが止まった。

そして鍵が開けられ、扉は開かれた。
背の高いシルエットが見えたが、突然差し込む眩しい光に唯は思わず目を瞑った。

「お遊びが過ぎるんじゃないのか」

冷たい凍えるような声にどきりとする。
「嘘」と小さな声で悲鳴をあげると三人は倉庫からバタバタと逃げ出して行った。
唯は目を開けるべきか一瞬悩んでしまう。
こんなときに彼が助けてくれるなんて出来すぎた展開はありだろうかと疑った。
夢でも見ているんじゃないかと怖くなった。

口元を覆っていたタオルをはずされ、ふぅと息をすると少し楽になったようだ。
両肩をぐいと掴まれ、唯は顔を上げさせられる。

「目を開けろ、キスでも待っているのか」

皮肉気な口調に驚いて慌てて目を開ける。
そこには、凍るように冷たい視線の各務一樹がいた。
屈むような姿勢で唯とは至近距離だ。

「一樹さん・・・」
「ここは学校だ。呼び方が違うだろう?」

そんなことを一樹に言われたことはなかったので唯は胸が痛んだが、
確かに誰に聞かれるともわからない。
実際先ほどのクラスメイトたちはどこかで唯と一樹のつながりに気づいたのだろうから。
慌てて言い直す。

「各務先生、助けてくれてありがとうございます」

まだ涙の乾かぬ顔で震えながら唯はそう言った。
一樹は顔をそらし、立ち上がると白衣の胸ポケットから煙草とライターを取り出しカチリと火をつけた。
一口吸ってからため息のように煙を吐いて目を閉じた。
かび臭い匂いが消えて一樹の香りがした。

「俺のせいか」
「・・・各務先生と望月先生両方と付き合ってると思われたみたいで」

どう説明していいかわからなくて唯はしどろもどろ応えた。

「誤解・・なのに」
「誤解だな」

一樹は珍しく煙草をふかした。
白い煙が立ち昇る。

「俺とお前は何の関係もなくなるんだから」
「一樹さん?」

唯は一樹が言ったことが理解できなくてつい名前で呼んでしまう。
一樹が皮肉気な笑みを浮かべ唯に携帯電話を手渡した。
目元は最初に会った頃のように酷く冷たい。

「もう俺をそう呼ぶな。俺はお前の教師で・・・兄なんだから」
「?!」

唯は頭の中が真っ白になった。
一樹は今なんて言ったのだろう。
聞き間違いであって欲しい。
これは夢なんだともう一度目を瞑った。
溢れる涙はそのままに唯は目を硬く閉じて耳を両手で塞いだ。
こんなことを聞くくらいならクラスメイトに殴られた時間の方が百倍ましだ。
もう一度あの少し前の時間に戻して欲しいと唯は必死に願った。

一樹は煙草を床に落とし、サンダルで踏みつけると唯の両手を無理やり上に上げた。
耳元で冷たい低音が響く。

「もう一度言おうか?俺はお前の兄貴だ」
「いやぁぁ」

(これは夢、夢なの)

唯は悲鳴をあげて、そのまま意識が遠ざかるのを感じた。



意識を失った唯を抱き上げ、体育倉庫を出るとクラス委員の真行寺麻耶がきつい目をして
各務一樹を睨んでいた。

「保健室においておく、後で迎えにいってやれ」

それだけ言葉を残すと一樹は唯を抱いたまま歩いていった。
ひどい発言は扉越しに麻耶の耳にも届いていた。
唯の絶望的な悲鳴も聞こえた。
なのに、どうしてそんな壊れ物を扱うような大切なものを扱うような抱き方をするのか。
麻耶には一樹の真意が掴めなかった。
ただ唯が目覚めたときに側にいてやらなければとそれだけを強く思った。



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