氷中花
56


夢を見ていた。
唯の頬に触れる細くやさしい指。
薄い唇が唯の唇に重なり、ゆっくりと離れてゆく感触。
甘やかな時間は夢でしかないと、唯にはわかっていた。
だから目を開けることもできずその感覚だけを味わう。
もう夢の中でしか触れることのできない人だから。
名を呼ぶことも禁じられてしまった人だから。
唯は眠りながら涙を零す。



「唯」

意識を取り戻して最初に見たのは麻耶の心配そうな瞳だった。
身を起こすと少し眩暈がして、唯は片手で頭を押さえた。

「麻耶ちゃん・・・どうして」
「クラスでちょっと嫌な噂聞いたから、各務連れて行ったの」
「そう・・・」

一樹の名前を聞いただけなのに胸が痛くなるのは重症かもしれないと唯は自嘲した。
零れ落ちる涙は止まらない。
唯は泣き顔を麻耶に見せたくなくて、両手で顔を覆った。
しゃくるような声だけが保健室に響く。

「唯、気休めかもしれないけど」

麻耶は俯いてしゃくり続ける唯の頭にぽんと手を置いた。

「各務にとって唯は大切な人なんだと思うよ」

その大切が恋しさからではなく妹だとわかったからなのだと唯は麻耶に言えなかった。
まだ心のどこかで認めたくないと思っている。
一樹が嘘をつく必要なんてないのはわかっている。
それでも、唯は嘘だと思いたかった。
枕元に置かれた携帯電話が冷たく光っている。




冬夜の屋敷に戻ってからも、唯は塞ぎ込んでいた。
ただ使用人しか姿が見えなかったため深く追求されることがなかったのは幸いだった。
軽い食事をとってから自分の部屋にすぐにこもった。
眠ることもできず、ベッドの中で丸くなって泣き続けた。
部屋の扉をノックされ、はっとしたように身を起こした。
時計を見ると十一時だ。

「はい」
「入りますよ」

大きなマグカップを片手に冬夜が入ってきた。
こんな時間なのにまだスーツを着ている。
仕事から帰ってきたばかりなのだろうか。

「冬夜さん・・・」

ベッドに腰をかけ、唯にマグカップを手渡す。

「差し入れ。眠れないんじゃないかと思いまして」

今日何があったかも知らないはずなのに、冬夜はそう言った。
いや、昨日言っていたのだ。

『明日になればわかります。貴女があまり悲しまなければいいのだけれど』と。

「冬夜さんは、知っていたんですね。一樹さんが私の義兄だと・・・」

言葉にする時つい震えてしまったのはまだそれが本当だと認めたくないからだと唯にはわかっている。
冬夜は唯の髪の毛をそっと指で梳いた。
肯定も否定もしない。

「どうして・・・」

唯は冬夜の真意も一樹の真意もわからなかった。
ただ自分だけが蚊帳の外にいるような気がしていた。

「お飲みなさい」

冬夜に促されて仕方なくマグカップに口をつける。
ホットミルクだ。
冬夜には不似合いだが自分はそれだけ子ども扱いということなのかとも唯は思った。
蒸し暑い今の時期にホットミルクをと思ったが、飲んでみると心に沁みた。
酒でも混ざっていたのか徐々に身体が熱を持つ。

「一樹が離れても、僕は貴女の側にいますから。ずっと」
「冬夜さん・・・」
「泣きたくなったら僕の胸でお泣きなさい」

気障な台詞に唯は泣きながらくすりと笑う。

「冬夜さんの彼女に怒られるからいいです」
「貴女だけのものですよ、僕は。貴女を愛することが僕の母への贖罪なんです」

そういう冬夜はひどくせつなそうだった。
やはり一美の死は自分のせいだとどこかで思っているのかもしれない。

和輝と芽衣の結婚を知らされたとき、唯は二度と恋はしないと思った。
そして一樹と出会った。
あのとき誓ったように一樹に恋しなければこんな思いをしないで済んだのにと思うと
自分の愚かさに情けなくなってしまう。
もう恋はこりごりだ。
兄妹としてならそういう煩わしさを感じずに付き合っていけるのだろうか。

「私はずるいのかもしれない」
「唯?」
「冬夜さんのお母さんへの罪悪感を利用して自分の寂しさを埋めようとしている」

冬夜は驚いたような表情を浮かべたが、すぐににっこり微笑む。

「いいんですよ、それで」
「・・・」
「貴女は僕の妹なんですから」

唯はどう答えていいかわからなくて曖昧な笑みを浮かべた。
兄とはこういうものなのだろうか。
芽衣も優しい姉で唯を愛情で包んでくれたが、やはり姉と兄は違うと思った。
兄妹とはいっても一樹とはきっとこんな風にはなれないとわかりつつ、
唯は彼が兄であるところを想像しようとした。
だが唯にとって一樹はやはり一樹でしかなかった。
もう義兄というより教師と生徒としてしか接することができないような気もするが。

冬夜の胸に抱かれて唯は髪を梳いてもらいながら眠りに落ちた。
どこか信用できなかった冬夜を唯が初めて兄らしく感じた夜だった。



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