氷中花
5
朝の第一声を出すとき、唯の気持ちはまだ戸惑う。
小さく深呼吸してリビングの扉を開く。
「おはようございます」
今日も笑顔で無事に言えた。
表情に出ないように気をつけながらそっと息をつく。
「おはよう」
「おはよう、唯は紅茶よね?」
「うん」
食卓に差しこむ光がまぶしい。
唯の斜め前の椅子が新しく定位置になった和輝は、
くつろいだ様子で新聞をチェックしている。
左手の薬指にはプラチナの指輪が輝いている。
ティファニーのミルグレイン。
エレガントなデザインは二人の細い指によく似合っていた。
「またどこか出かけるの?」
「うん、図書館」
母親の諌めるような声も毎朝のものだ。
「そんなに本ばかり読んでいるから眼鏡なんてかけることになるのよ」
「視力はもともと低かったんだってば」
朝食を慌しく詰め込むと、お説教も早々に席を立つ。
「唯ちゃん、夕食までには戻ってきてね」
「・・・うん」
姉の言葉に頷きながら唯はリビングを出た。
望月和輝と姉の芽衣が籍を入れ、同居が始まったのは先週の水曜からだった。
和輝が次男だったこともあり、姓は望月にしたものの斉藤家の跡取りのような扱いだった。
同居はそれの証のようで、唯も詳しく聞いたことはない。
もともと父親の教え子であり唯の家庭教師時代も長かっただけに
両親と和輝は打ち解けているように見えた。
唯の卒業式の翌日、結婚式は教会で両家の家族の中行われた。
親戚を呼ばないのは意外だったが、かえって姉らしいとも思えた。
華やかなタイプではないがひっそりした中に凛とした美しさのある花嫁だった。
唯に何も言わずに静かな笑顔で手渡されたブーケの白さが眩しかった。
花嫁のブーケをもらった人は次の花嫁に・・・
そんな話を聞いたことがある。
でも唯はきっとこの先誰にも恋をしないと思っていた。
だから、そのブーケは皮肉なものでしかなかった。
机の上で日々干からびてゆくその花は唯の恋の終わりを物語っていた。
そしてその花を見るたびに唯は諦めを知る。
結婚式が終わってその足で買いに行ったのは眼鏡だった。
もともと視力はあまり良い方ではなかったが、かけたら視界がくっきりした。
クリアな世界はきっと唯を変えてくれるだろうと信じていた。
毎日図書館に行って、本を読み現実から離れたかった。
実際本を読んでいる間は忘れられた。
辛い恋の行方も。
あの夜の男の凍えるような瞳も。
春からの和輝とのことも。
どこかへ消えてしまいたい。
そんな思いは本が受け止めてくれた。
図書館は入学式までの間ずっと唯の心を護ってくれた。
そんな平穏も長くは続かないのだけれど。
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