氷中花
31


バスルームを出て一樹の選んでくれた服を着たときも、
使用人の用意した美味しい料理を食べたときも
唯の笑顔はどこかぎこちなかった。
それに気づかない一樹ではなかったが、何かの審判を待つかのように
それについて言うことはなかった。
もともと口数の少ない一樹なので二人の間には最低限の言葉しか交わされていなかった。

唯の家の裏手に車を止めるまで、不自然な時間が続いた。
そのまま家に帰るのを見送ろうとした一樹に唯が運転席の窓に近寄って声をかけた。

「ちょっと待っていてください」

一樹は一瞬戸惑ったような顔をしたが、そのまま無言で頷いた。

唯は一樹を車に待たせて一度家に入った。
誰にも会わないようにと祈りながら急ぎ足で二階の自分の部屋に入り
着替えの入った紙袋を部屋の隅においてから机の二段目の引き出しを開けた。
引き出しの奥に手を伸ばし、小さな白い箱を取り出す。
箱を一度あけ、中を確認するとその箱を鞄の中にいれ再び玄関へ急いだ。

「唯、帰っているの?」

姉の声が聞こえたが返事はしなかった。
そのまま一樹の車へ向かって駆け出す。
一樹の選んだ淡い桃色のスカートが風に舞った。

助手席に再び座ると、唯は一樹の顔をじっと見上げた。
バスルームを出てからそれまで視線もまともにあわせなかった唯の変化に戸惑いながらも
一樹は唯を見つめ返した。
唯はコクンと息を呑むと、小さいがはっきりした声で言った。

「最初に出会ったあの場所へ連れて行ってもらえませんか」

一樹は頷いて車を発進させた。
そのとき斉藤家の二階の窓のカーテンが僅かに揺れていたのを二人は気づくはずもなかった。



道がすいていたこともあり、たいした時間もかからずに車は目的地へと着いた。
二人の出会った川沿いの道に一樹が車を止めると唯は助手席から出て川べりに降りた。
一樹も続いて車から降りる。

もう日が暮れかかっていた。
先に降りた唯を追うように一樹も川べりに降りた。
川辺の風は冷たかった。
唯が両手で自分を抱きしめるような仕草をすると一樹がジャケットを脱いで唯の背中にかけた。
それに反応するように唯は一樹をゆっくり振り返る。
人の姿はほかに見えなくて、川の流れる音と風の音だけが聞こえていた。

「あの日は雪が降っていましたね」
「・・・そうだな」

唯の髪が風になびく。
落ちかけた陽の光を浴びていつもより茶色く見えた。

「私はあの日、来るはずのない人を待っていたんです。そしてあなたがきた」

唯の瞳がせつなげに潤んだ。
一樹は優しい眼をしていた。
いつものような張り詰めた空気は感じられなかった。
唯は鞄の中から白い小さな箱を取り出した。
箱をあけ、それを一樹の前に差し出した。

「あの人を忘れるために、あなたと・・・。でももう、そういうのはやめたいんです」

一樹は驚いたように唯をみつめた。
目の前に差し出された箱は震える唯の手の中にある。

「あなたと、やり直したいんです。出会ったあのときから
私は・・・あなたのことが知りたいんです」

唯の震えたままの手をとり、一樹は唯の手から開けられたままの箱を受け取った。
沈む陽のひかりを浴びて箱の中にある指輪のダイヤモンドが大きく煌いた。
一樹は目線を反らし、川面を見つめた。

「話したらひくぞ」

低音の一樹の声は微かに震えていた。
唯はゆっくり首を振る。
一樹は唯の決意を感じ取ったのかしばらくの沈黙の後に言葉を紡いだ。

「俺は自分のせいで昔大切な人を死なせた。一緒に、逃げようとしていたのに、女だけが死んだ」

唯はびくりと身体を震わせた。
この女というのは彼にとって”一美”以外にありえないだろうと思った。

「一美さんは、冬夜さんのお母さんだと聞きました」
「知らなかったんだ。出会った時にはお互いに偽名を使っていた。読み方を変えただけだけれど。
各務の名前はそれだけ重かったんだ。冬夜が俺たちのことに気づいて俺の母親に密告して、
そこで俺と一美も初めて事実を知った。
それから・・一週間後にここに死体であがった。各務の力で公にはならなかったが」
「・・・」
「俺の母親は壊れていたんだよ。愛人の息子を気にして
次男なのに息子の名前に一の字をつけるくらいに」

一樹の眼差しは凍るような冷たさをたたえていた。
それは身内への呪いのように深く彼に突き刺さっている棘のようだ。

「お前と会ったあの日、母親が死んだんだ。
もっとも何年も病院に閉じ込められていた死人のようなものだったけれどな」

一樹が忘れたかったのは一美だったのか、母親だったのか。
どちらも呪縛のように彼に絡み付いて離れない氷の棘のようだと唯は思った。
彼の周りの氷を溶かしてあげたいと思った。


「わたしのカズキさんになってもらえますか」


苦しそうな顔で一樹は唯をみつめた。

「俺の罪を知っても?」

唯は左手をそっと差し出す。
微笑もうとおもった口元は歪んで涙が零れ落ちる。

「恋することが罪ならば、私ももうその罪に堕ちています」

一樹は黙って唯を引き寄せ、左手の薬指にリングをはめた。
最後の残光にダイヤモンドが美しい反射をした。



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あなたの隣氷中花 枯れない花星に願いを Sugar×2太陽が笑ってる


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